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松本ニキが贈る NBAコラム【7月号】


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NBAコラム 7月号

↓↓↓視聴しながら見てみよう↓↓




今回の7月号は、気になったテーマから一つPick Up!
日本でもメジャーなK.ブライアントにフォーカス!
松本ニキの彼に対する想いを時代の変遷とともにCheck!

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引退が騒がれるK.ブライアント。
彼がバスケットボールを介さずとも
日本に与える大きな影響を紐解く。


 「BRYANT(ブライアント)でしょ?」
――バスケットボールを知らない友人が
NBAの事を話す私たちの会話に割り込んでくる。


 今やNBA界のスーパーヒーローになった
コービー・ブライアントは、決して地続きの
選手生活を送ってきたわけではない。

1996年のNBAドラフト全体10位指名で
シャーロット・ホーネッツに指名されたコービー。
この時、コービーより上位で指名されたプレイヤーの中には、


アレン・アイバーソン

「マーカス・キャンビー」

「ステフォン・マーブリー」

「レイ・アレン」

「エリック・ダンピアー」

などが名を連ねていた。

この1996年ドラフトは、後にNBA界の
パワーバランスに変化を与える、
いわゆる”豊作の年”として
語り継がれることになる。


そんな中、ドラフト後すぐに
ロサンゼルス・レイカーズにトレードされたコービー、
当時は「若い自信家」、悪く言えば
「自信過剰の生意気な奴」と思った人も少なくないだろう。


しかし、彼の陽気な性格はすぐにファンの心を掴んだ。
1996-97シーズンには、出場時間が少ないにも関わらず
オールスターウィークエンドのスラムダンク・コンテストに
出場し優勝、さらにルーキーチャレンジでは歴代最高得点の31点を挙げた。


翌年には、控えにもかかわらずオールスターに初選出され、会場を沸かせた。


さらにその翌年、シャキール・オニール(以下シャック)の入団により、
チームの補強に成功したレイカーズ

1990-2000のシーズンからは
名将フィル・ジャクソンを迎えての3連覇達成となった。


その頃にはスーパースターとして
周囲からも賛辞の言葉がコービーにはかけられたが、
それと同時にシャックとの不仲説が報じられていた。
極めつけは2003年のコロラド州のリゾート・ホテルにおけるレイプ・スキャンダルである。


この時、コービーはチームメイトに助けを求めた。
しかし、当時3連覇した後も多くを話さず、
"静寂のロッカールーム"と言われた
レイカーズのチーム状況を見ると結果は火を見るより明らかだった。


当時の事を振り返ってシャックは自伝の中でこう語る。



――コービーは俺に面と向かってこう言った、
『お前はいつでも俺の兄貴で居てくれるって言ったよな。
俺のためなら何でもしてくれるって。
でもコロラドでのハプニング以来、電話の一本もくれないじゃないか』。
俺は電話したんだけどな…。

でもそれでわかったんだ。
俺たちが味方しなかったことで、
コービーは傷ついていたんだよ。
本当に意外だったね。

奴は俺たちのことなんかまったく
気にかけていないと思っていたからさ。
『せめて表向きだけでも俺をサポートしてくれると思っていたよ』
ってコービーは言うんだ。
『お前は俺の友達じゃないのか?』ってね」

「するとそこでブライアン・ショウが
俺たちの間に割って入ってきた。

『なあコービー。何でそんな風に思うんだ?
シャックは何度もお前をパーティーに誘ったけど、
お前は一度も来なかったよな。
遠征中に飯に誘っても、来やしない。

シャックはお前を結婚式にも招待したけど、
お前は顔を出さなかった。
そのくせお前が結婚した時は、
チームの誰にも招待状を送らなかったよな。
それで今問題が起こったからって、
このセンシティブな状況で
俺たちみんなにサポートしろって言うのか?

いいか、俺たちはお前が
どんな人間なのかも知らないんだぞ…』」

『Shaq Uncut: My Story』より引用


このシーズンを境に、
レイカーズからは主力選手が移籍する。
そんな中、コービーはレイカーズ
エースとして引っ張っていくことを条件に再契約した。

しかし、ここからのレイカーズ
お世辞にも強いとはいえるチームではなくなっていた。


――コービーが点を取るとチームが負ける


そんなバッシングを受ける程に低迷していたのだ。



話をタイトルに戻す。
そう。ここからがアメリカ、日本、そして世界が認める
超スーパーヒーローの誕生ストーリーの始まりである。


レイカーズのエース、コービー・ブライアントは、
2005-2006シーズン1月26日
NBA歴代2位となる1試合81得点をマークする。
この年、レイカーズはプレイオフにも復帰した。


"歴代屈指のスコアラー"として名を挙げたコービー、
そこから彼は、自らチームをけん引し、
新たに入団したパウ・ガソル
アンドリュー・バイナムと共にNBAファイナル優勝を誓った。


2007-2008シーズン、新勢力の加入により
NBAファイナルまで上り詰めたレイカーズ
シーズン中も圧倒的な強さを見せつけ、
レイオフでも盤石の勝ち上がりだった。
しかし、東の古豪"ボストン・セルティックス"との
伝統のライバル対決を2勝4敗とし、優勝のチャンスを逃した。

このファイナル第6戦では実に40点差以上の
点差をつけられるなど、レイカーズ側には
悪夢であっただろう。
それはコービーも例外ではない。


2008-2009シーズン、ファイナルに勝ち上がってきた
オーランド・マジックに見事勝利し、王者となった。

さらに、2009-2010シーズンでは"宿敵"セルティックスに
見事にリベンジを果たし連覇を達成した。

連覇で歓喜に沸く一方、
その後のインタビューでコービーはこう語る。


――「今でもあの時のファイナルは夢に見てうなされるんだ。」


逆境に屈しないスーパースターが見せた数少ない弱音を吐く瞬間だろうか。

そんなインタビューに応えるコービーの
人間臭さだろうか、折れないメンタリティだろうか、
気づけば人々は彼をNBA界の顔として認識していた。



レイカーズがファイナルに出場し始める2008年頃から、
日本のストリート系ファッション雑誌などでも
彼のユニフォーム「BRYANT 24」が目立つようになる。
ユニフォームに留まらず、シューズも一躍人気となった。

さらにはオリンピックで優勝するなど、
NBAファン以外が目にする場所でも、
変わらないリーダーシップ、プレイを披露した。

そこから彼について調べた人も少なくないだろう。
その時にはすでに81得点、優勝3回以上と言う
華々しい記録が並んでいたに違いない。

だが、上述した彼の軌跡は、平坦でなかったことも知れば、
コービー・ブライアントが、遠くともどこか身近な存在として
感じられるのではないだろうか?


最近は晩年をどうプレイしていくかに
注目が集まっているが、筆者自身、
彼は彼のままでいつまでも色あせずにいてほしいと、
叶わないとわかっていながらも夢見ている。




2015.07.27 松本ニキ